09.宮崎県 飫肥・油津<官と民のまちづくり>2005.01


「個性を生かし誇れるわが町にしたい。」その一心で地域に新しい風を吹き込み、人を呼
び込んで賑わいを取り戻そうと、自らの知恵と力を傾けている人たちがいます。

● 二つの核(飫肥・油津)と飫肥杉

日南市は北の旧城下の飫肥(おび)、南の油津(あぶらつ)という二つの古い町をもちま
す。双方をつないでいるのが新興の日南市といってよいでしょう。ここは古来より「飫肥
杉」という造船用の杉材を産した土地で、その積み出し港・油津は天然の良港です。この
地方は、土地は肥沃で降雨量は多く(年2,600o)、温暖で(年平均気温18度)杉の生育
に適しています。ここの杉は生育が早くて年輪の幅も広く、柔らかです。頻繁な台風の影
響で、昭和初期のha当たり1,000本以下の疎植により、長さの割りに径の大きな材が
でき、樹脂が多くて腐りにくく弾力性があって、造船用に最適でした。

私は、宮崎県挙げて林業と木材産業の振興に取り組むなか、飫肥杉を建築構造材や内
外装材、日用品等に試作して全国に広めたい日南市やその製材組合に招かれました。

● 飫肥=城・武家屋敷

飫肥は、明治の外交官・小村寿太郎の出身地で、飫肥城は日本で唯一、その本丸跡に
小学校があります。大手門は飫肥杉のみで釘を使わぬ「組み式」で復元され、「武家屋
敷通り」は古い屋敷の姿が点と線で結ばれ、石垣や生垣も原形保存されています。ここ
は「官製の」有名な伝建保存地区です。ただこの区域を離れた沿道の新しい土産物店舗
群が擬様式風なのは、惜しまれます。

写真1.飫肥城の大手門写真2.油津を巡る堀川運河と堀川橋

● 油津=運河・港・赤れんが館

一方、油津は、厳めしい飫肥城下とは全く対照的です。江戸時代から飫肥杉の運搬で賑
わっていた往時の港町情緒と生活感があふれ、昭和初期には東洋一のマグロの水揚げ
を誇っていました。町中に江戸時代にできた堀川運河が巡らされ、アーチ状の堀川橋は
優れた歴史的景観です。明治から昭和にかけての洋館、銅板壁の民家、土蔵、石倉な
どの歴史的な建造物が多数あります。

1922年建設の三階建て「赤れんが館」はじめ、1932年築の木造3階建て、銅板張り
の外壁をもつ今も現役の商家「杉村金物本店」などが代表例です。これら多様な建築が
織りなす姿は、さながら「町屋の野外博物館」です。赤れんが館の倉庫も飫肥杉で財を
成した地主が建設しました。

しかし、かつて1万4千人を超えた油津の人口は、主要産業であった杉材の需要低下に
よる林業の衰退と近海の漁業の不振により、港の機能が徐々に廃れ、95年には6千人
台に落ち込みました。空き家も目立つようになり、町は活気を失いました。

写真3.まちおこしの核「赤れんが倉庫」写真4.木造3階建商家「杉村金物本店」

● 港・油津の賑わいを!

「賑わいを取り戻そう」と油津の青年たちが20数年前、焼酎を酌み交わしながら夢を語
り合い始め、93年には「みなと街づくり委員会」を発足させました。94年にまちのイメー
ジアップや個性づくりのために「赤れんが倉庫」を中心にまちづくりビジョンを策定しまし
た。また、実態調査により保存すべき建築物が160棟以上もあることが分かりました。

ところが、97年、まちづくりの核にしようと考えていた中心部の「赤れんが館」の土地と
建物が、突然競売にかかってしまいました。彼らは、地元有志31名を募ってこの倉庫を
買い取り、建物保存を主事業とする会社を設立。裁判所に競売中止を申し立て、所有者
との間で売買契約を結び危機を乗り切りました。各自7年間のローンを組んで資金を捻
出し、これを返済しながら、ビアレストランや輸入雑貨の商業施設への転用案など、まち
づくりの核になりうる活用方法を検討中です。しかし、肝心の「赤れんが館」は傷みが激し
く、外壁の剥落があり、保存しつつ活用する修復や耐震補強などが必要です。保存・活
用への資金的協力を日南市に求め続けてはいます。

また、彼らはイベントとして、かつて十五夜に行われた「大綱引き」や堀川運河での「灯篭
流し」、「飫肥杉のいかだ流し」などの復活、油津の運河と港をめぐる美しくも懐かしい景
観づくりと活性化に取り組んでいます。「住んでいる人も、外から来る人も、お年寄りもみ
んな歩く。・・・・歩いて楽しくなる優しいまちを目指したい。」

● 新しい保存・活用のかたち

まちの人たちにとって懐かしく愛着ある赤れんが倉庫を残すために有志が資金を出す方
法は、「ナショナルトラスト」です。自治体行政に頼りきっていた旧来の他力本願的な姿勢
に対し、市民が積極的に関わっていく新しい保存・再生のかたちでしょう。

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